佐賀錦は江戸時代末期に肥前(佐賀県)鹿島藩鍋島家の深窓で創案作成され、鹿島鍋島家の女性達の苦心による創作であるといわれており、この佐賀錦の起源については、今から約180年前、鹿島鍋島家9代目藩主夫人柏岡の方が、たまたま病の床に伏せていたときに部屋の風雅な天井の網代組(あじろぐみ)の美に心を打たれ、これを日常生活に応用できないかと近侍の者に相談され、近習の並木某が苦心研究の末、観世縒(かんぜより)で網代を編み印篭(いんろう)を作り、なかなかに雅趣のあるものになったといわれております。
 佐賀錦にここまで工夫、改良を加えたのは、鹿島藩歴代の夫人である柳岡公、藹子(あいこ)夫人であり、その伝統は14代直繩(なおただ)の夫人政子氏に受け継がれ、今日に至っており、これが鹿島説と呼ばれるものであります。一方、小城説と呼ばれるものは、約300年以上も昔から佐賀錦はすでに小城藩で作られており、それを柏岡公が鹿島藩に伝えたのである、と説くものであります。今となってはどちらが正論であるか不明なのですが、有力なのは鹿島説であるとされております。
 明治初期に入ると佐賀錦は一時中断されますが、佐賀県出身の故大隈重信候がこれを惜しまれ、旧華族の間で再興されると大層評判となりました。
 その後、明治43年にロンドンで日英大博覧会が開催された時、当時まだ鹿島錦と呼ばれていたものを出品を期に佐賀錦と名付けられました。日本手芸の極致と称讃を受け、一気にその名声を遠く海外にまで広めることとなり、そのとき改めて佐賀錦と名付けられ、以後一般的に、佐賀錦の名が定着したものと思われます。


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