2 大筑紫経済圏について

 

1.大筑紫経済圏の意味

 ここでいう「大筑紫経済圏」とは、これからの九州経済のあり方を考えるときに有明海沿岸域と筑後川流域である佐賀平野と筑後平野からなる筑紫平野が九州経済の中心地域となることが歴史の必然でもあり地球環境問題をクリアーし、健康で豊かな生活圏の建設を模索していくために重要な地域であるということである。
 筑紫とは「つくし」であって「ちくし」とは呼ばない※1。かつて「筑紫の国」とは「九州の国」という意味であった。九州とは筑・肥・豊・大隈・薩摩・日向の6つの国から成り、「中華思想でいう中国全土という意味である」※2。「九州」を「筑紫の国」と呼ぶのは大和朝廷以前に九州に「九州の倭国」という国があったことをなぜか「筑紫」と呼んだからであろう。大和朝廷は大宰府(太宰府とは被支配者達の宰相という意味)に監視のための出先機関を置き防人(崎守り)を設置し九州と周辺国との交流を監視した。歴史は「九州倭国」を「磐井の国」と矮小化し、やがて地方の領地面積としては広すぎる地を名付けて「筑紫の国」と呼ぶようになったのであろう。
 「大筑紫経済圏」とは、また、佐賀県の「筑紫都市圏構想」と福岡県の「筑後田園都市圏構想」の集大成として「九州経済の中心=核作り」であり、歴史的には「筑紫の国=九州の再生」と言う意味を込めたものである。


 

※1 「ちくしの国」とは大和朝廷との境目という意味の標(つくし)の国である。継体天皇の時代、「筑紫の御井の郡に交い、戦い、旗鼓相望み、埃塵相接ぐ」という激しい戦いの後、敗れた磐井の大君は死ぬ(531)。磐井は豊前の上膳県(かみみつけのあがた)に逃れて死んだという説もある。磐井の子、葛子は死を免れるために「糟屋の屯倉(みやけ)」を献上した。継体天皇は「長門より東は朕制らむ。筑紫より西汝制れ」(書記継体21年条)と物部麁鹿火(あらかい)に告げた。長門までは大和朝廷の領地、豊前と糟屋までは物部麁鹿火の支配地、残りの九州は磐井の領地ということになる。その後、磐井の九州倭国は白村江の戦い、斎明天皇の朝倉での崩御を経て、天智天皇と天武天皇の時代に大和朝廷の領地に編入されていくのである。それ故に筑紫の国とは九州全部という意味となり、音を標の「つくし」から筑の国の「ちくし」に変えたのであろう。


※2 筑・肥・豊・大隈・薩摩・日向の6つの国を、筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・大隈・薩摩・日向の9つの国というのは誤りであることになる。

 

 

2.新・全国総合開発計画の中での大筑紫経済圏

 「新・全国総合開発計画」(国土審議会計画部会)において提案されている日本経済再生のための構想は、自然や地理、文化的条件で共通性がある人々の価値観に応じた就業と生活を可能にし、地域の自立を促進することである。すなわち、この経済圏構想は次の4つに要約される。
  (1) 自然と生活の豊かさを両立する国土構築
  (2) 国主導の開発から地域の主体的な国土作りへ転換
  (3) 効率よい社会資本の整備
  (4) 地域的なつながりや機能重視した産業・文化の集積
 この新国土軸(日本海国土軸、西日本国土軸、太平洋新国土軸、北東国土軸)構想の中の3国土軸(日本海国土軸、西日本国土軸、太平洋新国土軸)にこの「大筑紫経済圏」が対象とする地域である筑後川流域と有明海沿岸が重なって入っているのである。すなわち、この地域は、(1)人口1,400万人を擁する九州経済の重心に位置し、(2)有明佐賀空港を中心とするとこの地域は福岡市・熊本市・長崎市と約50kmの等距離に位置し、半径30km圏内には150万人の経済圏がある。
 この3国土軸が重なり合うこの地域に(1)自然と生活の豊かさを両立する国土構築と(2)国主導の開発から地域の主体的な国土作りへ転換を意図した、(3)効率よい社会資本の整備のもとで(4)地域的なつながりや機能を重視した産業・文化の集積国際交流圏の中心と中核都市作りが必要なのである。なぜならば、この地域には、筑後川の流域として、歴史的にも、有力な中小企業群が存在し、ハイテクのみならずローテクの時代に対応することが可能な地域だからである。

 

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